星に手が届く町

伝説によると、プラハ繁栄の運命はその創設前に既に予言されていました。

「強大な町が見える、その栄光は天の星にまで届くであろう。」…この予言は、ブルタバ川を囲む深い森の一点を指していたとされています。そこでこの地の最初の住民はここに城を建て、新たな都市建設の基盤を築いたのです。

星と天文学、そして占星術との運命的関係は、現在にいたるまでプラハに大きな影響を与え続けています。プラハが大きな戦争、災害を免れることができたのも、幸運の星の影響かもしれません。そのおかげでこの町は、千年もの期間を通して現れた様々な建築様式を、美しい、一つの凝縮された形で残した、世界のどこを探しても他に見られない貴重な遺産として、その栄光を謳歌するようになったのですから。

 

いつの時代も、プラハの神秘的な雰囲気は、この町を訪れる者全てを魅了してきました。その中には、この欧州中央に位置する岐路を訪れた、あるいは一定期間過ごした学問、芸術、政治の歴史に名を残した人物も多々含まれています。このプラハの魅力、美は一体どこから来るのでしょうか? その秘密はどこにあるのでしょう? チェコ人作家ヤクプ・アルベスが感じた「不可思議な超自然的魅力」は、どこに端を発しているのでしょうか? これらの問いに対して、明確な答えが見つかることは決してないでしょう。なぜならプラハには、その表面下に、ごく当たり前の日常的現象が入り込めないもの、私たちの理解を超える何かが隠されているからです。プラハを理解しようとする者は、この町についてまず知っておかなければならないことがあります。どんなに詳細なガイドブックにも決して見られない何かを。これを知る方法はただ一つ。実際に通りを歩き、この幻想の町を、かつてドイツ人作家オスカー・ヴィーナーが「中央ヨーロッパのざわめく心臓」と称したこの町を、自分の目で発見することです。どんなに素晴らしい詩人も作家も、プラハにかかっては、その神秘と美の断片さえも再現できずにいるのですから。

山師と学者の王

プラハが最大の繁栄を見せたのは、ルドルフ二世(1612年没)の時代でしょう。チェコの歴史上最も高貴な変人ともいえるこの王は、プラハを帝国の首都に制定し、その宮廷に、途方もなく莫大な価値の宝物を集めました。宝物の中には奇妙な器械、道具など様々な珍品も含まれていましたが、その美術品コレクションは当時最も豪華なものとされていました。動乱の歴史を生き延びた貴重なコレクションの一部は、今日プラハ城内で公開されています。プラハ城美術館では例えば、ヴェロネーゼ、デューラー、ハンス・フォン・アーヘンなどの作品を鑑賞することができます。

プラハ城美術館
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Portrait of Rudolf II by Hans von Aachen  Alchemists in the court of Rudolf II

 

ルドルフ二世の統治下、プラハはその君主のエキセントリックな感情の起伏に翻弄されていました。一方、この頃は占星術師、形而上学心酔者、その他様々なペテン師が横行した時代でもありました。皇帝が天体に傾倒していたため、プラハには一流の天文学者のみならず、錬金術師をはじめとするありとあらゆる山師、詐欺師がやって来ました。伝説によると、これら神秘の職人たちは、プラハ城内黄金の小道に住み着いたということです。絵に描いたように美しいこの小道は、現在もほぼ当時のまま保存されています。

黄金の小道
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同じ頃、プラハのユダヤ社会もまた黄金時代を迎えていました。皇帝ルドルフ二世がユダヤ人の特権を認めたため、ユダヤ人街 はその治下でそれまで最大の繁栄を謳歌するようになったのです。マイゼル・シナゴーグ、ピンカス・シナゴーグ、ヴィソカー・シナゴーグ、ユダヤ人街役場や、その他様々な公的、私的建物が建設されたのもこの頃でした。当時プラハには有名なタルムード学校がありましたが、そこでは貴重な文学作品、研究成果などが数多く生まれました。またヘブライ語の印刷所もありました。その頃のプラハ・ユダヤ社会の伝説的人物と言えば、ラビレーヴとして知られるヤフダ・リヴァ・ベン・バツァレルです。彼は伝説の怪物ゴレム.の創作者としてあまりに有名で、プラハで過ごした時期は限られていたにも関わらず、当地のユダヤ人墓地に埋葬されています。

皇帝ルドルフ二世のおかげで、プラハは天文学史に名を残す2人の巨匠の出会いの場ともなりました。2人の関係とそのうちの1人の謎の死は、長いこと世界中の歴史家および 作家のファンタジーをかきたててきました。

この2人の偉大な天文学者の軌跡は、プラハのいたるところに見られます。

偉大な天文学者の軌跡を訪ねて
偉大な天文学者の軌跡を訪ねて
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王妃アンナのルネッサンス式夏の宮殿 Thinkstock

王妃アンナのルネッサンス式夏の宮殿

王妃アンナのルネッサンス式夏の宮殿、別名ベルベデール 。アルプス以北で様式的に最も純粋なルネッサンス建築物。ブラーエとケプラーは、ここで定期的に天文観測を行っていました。

ワルドシュテイン宮殿 Thinkstock

ワルドシュテイン宮殿

今日上院となっているワルドシュテイン宮殿には、天文学の廊下と呼ばれる空間がありますが、ここには、ガリレオの新発見、例えば環の代わりに2つの惑星を伴った土星、あるいは金星の満ち欠けなどを表した絵が見られます。この装飾は、ヨハネス・ケプラーが最後にプラハを訪れた1628年に、これを記念して加えられたものとされています。当時 ワルドシュテイン宮殿の建築指揮は、かつてガレリオ・ガリレイの弟子を務めたこともあるジョヴァンニ・ピエローニが担当していました。

ストラホフ修道院 © Roman Cestr

ストラホフ修道院

ストラホフ修道院の有名な図書室は、20万冊もの貴重な文献を擁することで知られています。その中には、旧市街天文時計の補修に貢献したアントニーン・ストゥルナト(1746年~1799年)の著書、数学理論コレクションのほか、ティコ・ブラーエの貴重な蔵書、あるいはブラーエ自身の著書も見られます。また神学の間には、様々な地球儀、宇宙儀が展示されています。この神学の間、そして哲学の間ともに、天文学をモチーフとしたフレスコ画で飾られています。

球技館 archiv Photo-Prague (COEX)

球技館

プラハ城内には、17世紀に「数学の塔」と呼ばれる建物が立っていました。もともと12世紀に建てられた建物跡に建設されたもので、この12世紀の建物跡は、城内第2の中庭と第3の中庭を結ぶ通路に今も見ることができます。皇帝ルドルフ二世は、この塔の中で多くの時間を過ごしました。ここには天文学器具も置かれており、ヨハネス・ケプラーも皇帝に呼ばれてここに通っていたということです。その近く、王家の庭園内にある球技館の壁は、天文学、幾何学、算術などなどの学問を寓意化したフレスコ画で飾られています。

シュワルツェンベルク宮殿 archiv Photo-Prague (COEX)

シュワルツェンベルク宮殿

フラッチャニ広場のシュワルツェンベルク宮殿。その3階では、ティコ・ブラーエが伝説の最後の晩餐に列席したと言われています。今日宮殿は、国立美術館の展示場の一つとなっています。

カレル大学 © Eliška A. Kubičková

カレル大学

オヴォツニー・トゥルフ通りの旧カレル大学寮(12/573番地)には、1604年~1607年ヨハネス・ケプラーが住んでいました。火星が楕円軌道を持つこともここで発見しています。また1604年には、寮の庭に立つ木の塔から、へびつかい座の超新星を観測していました。

クレメンティヌム © Thinkstock

クレメンティヌム

中欧最古にして、現在も機能している気象観測所の所在地。ここでは、定期的な気象観測が1775年から行われています。現在一般公開されている天文観測塔には、再現された昔の象限儀、その他様々な天文学機器が展示されています。また鏡の礼拝堂内バロック広間の天井には、1727年に描かれたフレスコ画が見られますが、その一部は学問の寓意画となっています。更に旧数学の広間(現在音楽部門)の天井画は、18世紀当時、イエズス会修道院内に、カトリック教会で否定されていたコペルニクスの宇宙理論を表現することが可能であったことを示す、貴重な証拠となっています。

ケプラーの家 archiv Photo-Prague (COEX)

ケプラーの家

カルロヴァ通りのケプラーの家(5番地)。ヨハネス・ケプラーは、ここに1607年から1612年の間住んでおり、その著書「アストロノミア・ノヴァ」もここで完成させています。今日この建物は、恐らくプラハで最も小さな博物館、ヨハネス・ケプラー・ミニ博物館として公開されています。この建物自体が、世界で唯一現存するケプラーの居住場所として、貴重な史料となっています。この家に居住中、ケプラーは更に六角形の雪の結晶を発見、また光学の研究にも従事し、いわゆるケプラーの望遠鏡の発明にも成功しました。

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天文学者の弟子と師の謎の死

ティコ・ブラーエは、最も優秀で最も正確な天文観測者と考えられており、その観測成果を上回る発見がなされたのは、望遠鏡発明の60年後のことでした。彼は当時のデンマーク王クリスチャン四世とそりが合わず、祖国デンマークを後にし、ルドルフ二世の宮廷にやって来たのでした。学者でありながら、ルドルフ皇帝のもとでは占星術師として務めを果たしており、一説によると皇帝の運命を予言、そのお気に入りのライオンの命と深い関係にあると言い放ったそうです。伝説では、ルドルフは実際ライオンの死後数日後に亡くなったとされています。

 一方で、ティコ・ブラーエ自身の死もまた、長いこと様々な伝説に形を変えて語られてきました。一説では日食の観察に夢中になっている間に膀胱が破裂して死んだことになっていますし、また別の伝説では、宴席で皇帝より先に席を立つのを恥らったことが、膀胱破裂の理由とされています。更に後年には、毒物を自分でふくみ自殺した、あるいは誰かに殺されたとの仮説も現れ始めました。後者では、殺人者は国王クリスチャン四世の命を受けたスウェーデン人貴族とする説のほかに、ティコ・ブラーエの弟子、ヨハネス・ケプラーが、師が40年間収集した天文記録を自分のものにするために殺したとする説もあります。若いケプラーは残忍な殺人と引き換えに、その名声を手に入れたのだ、というわけです。

この400年間世界中を悩ませ続けた謎が完全に解けたのは、つい最近のことでした。2009年1月、デンマーク国家が、 旧市街広場のティーン教会内に埋葬されたティコ・ブラーエの遺骸再発掘を依頼したのです。翌年、遺骸を調べ、その死因が塩化水銀による中毒であるか否かを解明すべく、プラハにデンマークの研究者チームが到着します。考古学者が錫製の棺に納められたブラーエの遺骸を取り出したのは、11月15日のことでした。棺の中には、長骨、肋骨、頭蓋骨の一部が残されていましたが、研究チームは、これをプラハのナ・ホモルツェ病院に運び込み、コンピューター・トモグラフィーで調査を進めていきました。

 

Exhumed remains of Tycho Brahe   Exhumed remains of Tycho Brahe

© ČTK

 

その2年後調査結果報告書が発表されましたが、その内容は、ブラーエは中毒死でなく自然死したと断言するものでした。 こうして400年後にやっと、ヨハネス・ケプラーはその疑いを晴らすことができたのです。ケプラーは、プラハでティコ・ブラーエの弟子として研究を始め、火星軌道の正確な観測作業に貢献しました。ブラーエの死後は、その跡を継いで皇帝付き数学者、占星学者として勤める傍ら、自らの研究も続けていきました。ケプラーが、後に天文学の基礎を固めた惑星の太陽周囲公転に関する3法則のうち、2つを発見、その著書「アストロノミア・ノヴァ (新天文学)」の中でこれに初めて言及したのも、プラハ滞在中のことでした。ケプラーの学説は半世紀前、実験によりその正しさが完全に証明され、更にその数年後には、最初の人工衛星、宇宙探査機が飛ばされましたが、そのラケット設計にもケプラーの法則が生かされていました。

 

旧市街天文時計 は、世界で最も保存状態の良い、中世の天文時計と言えましょう。これが旧市庁舎 の塔に取り付けられたのは、1410年のことでした。その考案者はヤン・オンドジェユーフ、別名シンデルで、時計の細工作業を担当したのは時計技師、カダニュのミクラーシュでした。時計の心臓部分、すなわち太陽、月、獣帯の指標を動かす、それぞれ365、366、そして379の歯を要する歯車は、中世のオリジナルがそのまま残されており、現在も機能しています。15世紀末、これにカレンダリウムが加わりますが、これは1866年、画家ヨゼフ・マーネスの絵で飾られ、一新されました。ヤン・オンドジェユーフ(1375年頃~1454年)は、卓越した中世の天文学者、数学者、医学者で、その著書には、ティコ・ブラーエも賞賛の意を表しています。

 

 

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プラハ天文時計は、事実上天文学ラボ、すなわち天体の位置と相互距離を示す、力学の原則に基づく万能アナログ・コンピューターの役割を果たしていると言えます。この天文時計からは、その瞬間太陽が位置する獣帯、地平線上の太陽の高さ、夏至、冬至、春分、秋分における日の出、日没の時間と場所、などなど様々なデータを得ることができるのです。小さな金塗りの星がついた針は、恒星時を表します。この完璧な技術機械には、18世紀キリストの12使徒の人形が加えられ、毎正時に塔の上の部分を行進し、小窓からその姿を見せるようになりました。

伝説によると、天文時計の機能も、チェコ国家の運命に大きく関わっています。時計が動いていれば大きな問題はなく、時計が止まると悪いことが起こるというのです。最後に時計が止まったのは2001年、大晦日の真夜中直前のことでした。些細な故障が機械(現在電気仕掛けとなっています)を止めてしまったのですが、その翌年2002年の8月には、プラハは大洪水に見舞われています。

 

プラハ

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